概略説明文


洞玄寺の歴史

禅(曹洞)宗 宝珠山洞玄寺(とうげんじ)(新善光寺、長光寺)の由来

 江戸時代の長州藩の公的文書「寺社由来」によると、西暦635年、物部守屋の三男で厚東氏の祖となった辰孤連(たつこのむらじ)が長門守に任ぜられ、この地に推古天皇の持尊仏(一光三尊阿弥陀仏)をまつり新善光寺を創建したと伝えられている。裏山には、4世紀後半の前方後円墳で長門国の初代長官の墓と言われている有名な長光寺山古墳が眠っている。これは、厚狭が長門国最古の中心地であることを物語っており、厚狭盆地を一望する西の丘で、海上アクセスの要である下津を監視する場所に境内地が選定されている。それらを裏づけるように、境内からは西暦600年前後の祭祀に使用された須恵器が出土している(洞玄寺遺跡)。
 寺域に板垣の城が築かれ支配者の拠点となった。中世には、厚西郡の本主箱田氏が菩提寺とし、長光寺となった。足利尊氏の命により一国一基の大塔が長門国の利生塔として現在の石字経王塔の場所に建てられた。今もこの地域の小字(こあざ)は長光寺と呼ばれている。
 江戸時代に入ると、関ヶ原の戦いに敗れた毛利は、防長二州に減封され、毛利家一門三席に列した毛利元宣は、寛永年中この地に封ぜられた(厚狭毛利家と称す)。彼は、長光寺を菩提寺とし、父元康の法号(洞玄寺殿石心玄也大居士)に因んで洞玄寺と称した。初代毛利元秋(毛利元就(もとなり)の五男、島根県富田月山城主)、二代元康(元就の八男、出雲末次城主、島根県富田月山城主、備中笠岡城主、広島県神辺城主)以降厚狭毛利家一門の墓がある。また、初代元秋の持尊仏 将軍(勝軍)地蔵が毛利家位牌殿の本尊様としてまつられている。
 爾来250年毛利家の庇護のもとに平穏に過ぎたが、明治2年長州藩を震駭した脱退騒動にあたり、時の住職実音が反乱軍に加担脱走したことにより洞玄寺は、形式上は廃寺となり、正福寺(大津郡より引寺)と名前を変えさせられた。その後、昭和44年、再び洞玄寺に復した。

長光寺の歴史
1313年に、箱田貞嗣入道禎蓮、新善光寺を再興して香華所として開く。当時周防、長門国で勢力を伸ばしていた奈良西大寺門下鎌倉極楽寺の仙海房(仙戒上人、極楽寺定仙の弟子)を開山とした。1336年、足利尊氏九州に下る途中、新善光寺に泊まり、長光寺と改称させた。以後、住持は、覚智房、宗詮房、性恵房、理円房、春如房と続いたが、最後の春如房が、1471-1478年間に死去した後、長光寺は徐々に衰退したと思われる。
 
厚狭毛利家歴代墓所

(毛利元就の8男元康以降歴代墓所)

 戦国時代の雄、毛利元就は長年の宿敵山陰地方を支配していた尼子義久を破り、その居城で難攻不落の名城として名高い出雲国(島根県)富田月山城を山陰地方を治める拠点として、五男の毛利元秋にまかせた。元就は彼に分家を与えたが、これが厚狭毛利家の始まりである。元秋は、34歳で他界し墓は現在月山城跡の近くに存在する。彼の死後、跡目は弟である元就の8男毛利元康が継いだ。元康はまさに戦国武将であった。まず、出雲末次城主となり、次に兄を跡を継ぎ月山城主となった。さらに、備中笠岡城主、広島県神辺城主となる。朝鮮出兵では甥の輝元を補佐して活躍した。1600年関ヶ原の戦いでは、その前哨戦として名高い京極高次率いる大津城攻めの総大将となり、勝利を収める。勝利に酔いしれる中、本戦で西軍が敗れたことを知らされる。同年、毛利家は防長2州36万9千石に減封され、元康は厚狭郡に1万5百石で封ぜられた。失意の中、厚狭に向かう途中、1601年大阪の地で42歳で亡くなった。墓は、大阪天徳寺と洞玄寺にある。元康を継いだ毛利元宣は、毛利家一門三席に列し、厚狭の殿町に居館をかまえた。これを厚狭毛利家と言い、また萩の四本松に出屋敷(重要文化財)があったので、四本松毛利家などともいっている。元宣は、父元康の菩提のために長光寺の跡に一宇を建立し、禅(曹洞)宗に改め、湯本大寧寺の二十世勅賜本照禅一禅師国・宗珍和尚を請して開山として、父元康の法名洞玄寺殿石心玄也大居士に因んで、寺号を洞玄寺・山号を宝珠山と称した。
 以後、歴代宗藩の一門として藩勢の重席にあって、以後維新に至るまでこの地を離れることはなかったが、十四代一彦および弟宣男の両名が、さきの太平洋戦争に戦歿したことによって、その直系は絶えた。
 歴代墓所には、元康以後14代までの厚狭毛利家歴代42基の五輪塔、笠塔などが苔むしている。
 
毛利勅子先生墓所

(日本で3番目に古い女学校の創立者)

 徳山毛利第七代藩主毛利広鎮(就寿)の娘、「蛤御門の変」の指揮者福原元|(越後)の妹。厚狭毛利第十代元美(萩明倫館奉行、赤間関海防総奉行)に嫁ぐ。明治6年、東京、京都に次いで、日本で三番目の女学校を設立。船木女学校、徳基学舎、徳基女学校、山口県立厚狭高等学校となる。半生を女子教育に捧げた。その思いは、「学ぶ子のすすむさとりにひかれつつ、惜しき年はも知らで越へけり」という歌に表れている。明治12年2月2日、60年の生涯を終える。
 
粟屋活輔先生墓所

(旧厚狭郡・美祢郡文教の父)

 旧厚狭郡(宇部・小野田・山陽町)および美祢郡の文教の父であり草分けと言われる。県立小野田高等学校(興風中学)の創立者。厚狭毛利家学館朝陽館教頭田口弥八郎(向かいに彼の墓がある)の寺子屋で学ぶ。後の厚狭毛利家12代英之輔の御陪伴(とぎ)(遊び相手)を勤め、十代元美夫人勅子女子に寵愛される。17歳で上京し、内務省勧業局千住製絨所長井上省三宅に下宿、同氏とヘードビッヒ夫人にドイツ語学などを習う。東京大学医学部予科に入学後、病気のため中退、帰省して「如不及堂」塾を創立、後に興成義塾・興風中学となる。全財産さらには多大な借金までして、教育に一生を捧げた。校内の顕彰碑の碑石は洞玄寺の参道下の巨石が用いられている。朝陽館学頭市川玄白の二女が母である。
 
千林尼墓所

女性ボランティアの先駆者

 仙林尼とも書いた。女だてらにと冷遇されながら、何ら見返りを求めることもなく、社会事業に邁進した。主なものは、船木から有帆への指月道、船木から厚東への棚井山田路、船木逢坂より西見峠への石畳、厚南鏡ヶ窪の敷石、厚狭吉部田の小石橋、小野田船越の石畳、厚狭下津の木橋。明治2年5月12日、厚狭吉部田の玉泉庵(洞玄寺末庵)で60歳(推定)で没した。
 平成15年、千林尼碑、彼女が供養した法華経千部塔、享保4年の六十六部供養塔の3基を玉泉庵跡より当地に移した。
 
山陽道 歌人の足跡

山陽道は歴史の道

歌人 今川了俊(貞世)
 室町幕府から九州探題として大宰府に派遣された道中の旅行記が有名な「道ゆきぶり」である。建徳2年(1371年)10月8日、当寺に一泊して詠んだ次の歌は、厚狭の地名を詠み込んだ最古の歌と思われる。 
  雨にきる我身の代にかへななむ
      ころもをるてふあさの里人

連歌師 宗祇  山口から大宰府への紀行文「筑紫道記」の文明12年9月8日(1480)の項に、当寺の利生塔に触れている。

狂歌師 蜀山人(大田南畝) 長崎よりの帰途、「小春紀行」には、「下津洞玄寺道五町といへる石表あり」文化2年(1805)と書かれている。この石柱を、旧山陽道、浴付近よりこの場所に移した。
 
長光寺山古墳

4世紀後半の前方後円墳で長門国の初代長官の墓

邪馬台国の女王卑弥呼が3世紀前半に実在していた人物であることは誰もが認めるところである。彼女は、30カ国を統治下に置き支配していたという。その内いくつかの国は、北部九州に存在していたとされているが、邪馬台国の中心がどこかは未だに論争の種になっている。その延長上の大和国家は、畿内で4世紀前半に確立したとされ、その証として各地に大和王権が与えた副葬品を持つ古墳が出現した。従って、古墳の出現分布から大和王権の地方への拡大経過を見ることができる。
 まず、最も早く4世紀前半に築造された古墳は、前T期と分類されているが、殆ど畿内で出現されている。瀬戸内でもいくつかあり、山口県内では最古の新南陽市の竹島古墳のみである。これに続く前U期(4世紀後半)に、県内では2番目に古い長光寺山古墳、即ち洞玄寺の裏山に存在する古墳が出現した。この古墳からは、江戸時代に盗掘されているにもかかわらず、三角縁神獣鏡3枚、鍬形石という碧玉製腕飾などが発見された。この発見は、考古学者を大いに悩ませている。というのは、この古墳は長門地方の権力の中心が、この地であったことをはっきりと物語っているが、一般には中心は、土井が浜・綾羅木を含む北浦から国府が置かれた下関市長府に移ったと考えられてきたからである。
 この長光寺山古墳の埋葬者は、長門国(穴戸国)の初代長官と考えられている。即ち、最初の国造(くにのみやつこ)である。「国造本紀」には、景行天皇の時代に桜井田部連(たべのむらじ)の同族速都鳥命(はやつとりのみこと)を穴戸国造に定めるとあるが、景行天皇は伝説上の人物と考えられているので、他の人物も疑わしい。歴史上明確になるのは、大化の改新で646年孝徳天皇は、国造制を改めて国・郡・里の新しい行政区を設け、その長官に国司・郡司・里長を置いた。国の政庁を国衙(こくが)といい、その所在地を国府または府中といった。長門国の国衙は長府に置かれた。
 以上をまとめると、邪馬台国の時代、1つの国がこの厚狭盆地に存在し、次第に力をつけ、大和王権とのつながりもあってか、4世紀前半にこの長門地方を治めるに至った。つまり、長門地方最初の政治中心地である。その後、5世紀になり朝鮮半島への出兵などのため生産性の高い綾羅木地区に中心が移った。いずれにせよ、この厚狭盆地は長門地方最古の中心地であり、その庁舎は、盆地平野が頻繁に水に漬かること、平野全体を監視できること、長光寺山古墳の位置などから、現在の洞玄寺境内に存在していた可能性が強いと思われる。
参考資料(山口県の古代遺跡(U)古墳編、古代遺跡教材化研究会、平成8年3月31日、桑原邦彦ほか)
 
洞玄寺遺跡

600年前後の祭祀に使われる須恵器が出土

 昭和46年当納骨堂建設に当たり、深さ約1m掘削したところ、地中より夥しい須恵器が出てきた。この須恵器は、山口県埋蔵文化財センター学芸員の鑑定によると、6世紀末のもので九州編年WAに類するということである。
 この須恵器は、仏事に用いる祭器と思われるもので、新善光寺の創建時期(635年)とおよそ一致している。
また、約20m山手におよそ5・6世紀ごろの築造と思われる石棺(未調査)が発見されている。長光寺山古墳(4世紀後半)から、連綿と続いているものと予想される。
 
長門国利生塔跡

足利尊氏発願による長門国利生塔

 足利尊氏発願、日本国六十六基の中の一塔、長門国利生塔跡。尊氏は、国ごとに安国寺と利生塔(五重塔か三重塔)を、各国守護と関係が深い菩提寺などに建てた(1345年ごろ、当時は長光寺)。文明12年(1480年)には、有名な連歌師宗祇が、大内政弘の招きに応じて山口に下向し、更に豊浦・赤間関・若松を経て太宰府・博多方面を歴遊しているが、その時の紀行「筑紫道記」にも、「今宿とかいひて、左に塔婆のなかばみゆる寺有り」と、この塔の記述がある。
 
石字経王塔

法華経を一石に一字づつ書いて納経した

 毛利家にとっては大きな痛恨事が重なった。それは、安永三年(一七七四年)六代元連の死と、続いて一年おいて七代就盈の他界であった。元連には男子があったが夭折して後継ぎがなかったので、娘の千代菊に徳山毛利家より就盈を迎えて養子とし、厚狭毛利七代当主としたのであったが、この二代の当主の相継ぐ急逝は、特に二十六歳の若さで夫を失った千代菊(芳菊院殿)にとっては、その悲しみは尋常でなかった。さきに一男二女の愛児にも先立たれて、人生の無常に仏心を深めた千代菊は、亡父元連の七回忌に当たる安永九年に「法華経一字一石塔」を造立して追善供養を営んだ。
 多宝塔形の石塔の塔身軸部北面に「石字経王塔」と書いてあり、通称、「石字経王塔」といわれるこの搭の中には、こぶし大の玉石に法華経の一字を書いたものが積まれている。
 
不焼(やけず)観音

関東大震災の焼跡に傷ひとつなく発見されたお観音様

 大正12年関東大震災の時、東京被服廠の焼け跡から出土した藤田清一氏奉納の霊仏、木彫の立像観世音菩薩を安置したお堂で、同氏の一建立によるものである。
   不焼観音ご法歌(19世作)
       彼の岸へ心しずかに渡らなん
                    このみ仏のみ手にすがりて
 
不焼(やけず)観音さまの祈り

(「曹洞宗観音経法話実践講座」四季社に、住職執筆

<>内はルビ
お観音経は、無尽意菩薩がお釈迦様に「観世音菩薩はどんなわけでその名前が付いているのでしょうか」と問うことから始まります。それに対してお釈迦様は「多くの人々が苦しみを受けている時、そのお名前を一心にとなえれば、すぐにその音声を観じて、救ってくださるので、観世音と付いているのです」と答えられます。そして、具体的にどういう苦しみ・災難の時、どういうふうに救ってくださるのかを、お釈迦様は無尽意菩薩に一つずつ話されます。その災難を七難と言いますが、その最初にあげられているのが、火難です。お釈迦様は、こう答えられました「若<も>しこの観世音菩薩の名を持つもの有らば、設<たと>い大火に入るとも、火も焼くこと能<あた>わず」。これを再度、お経の最後のまとめの中で五言四句の詩によって美しく、格調高く歌われているのがこの「仮使興害意 推落大火坑 念彼観音力 火坑変成池」です。大意は、「たとい悪意を起こされて、大きな火の穴に突き落とされても、彼<か>の観音の力を念じるならば、火の穴は変化して池となるでしょう」。
 この火難は七難の最初にあげられていますが、昔から災難の最たるものだったのかも知れません。地獄の風景も焦熱地獄というすべてを焼き尽くす火のイメージで語られています。その恐ろしさは、私たちの身近にもありますし、その怖さを十分想像することができます。たき火の煙を吸っただけでも、息ができなくなり目の前が見えなくなりますし、火事を目の当たりにされた人は、その燃えさかる炎の力に圧倒され、人の力ではどうしようもないものを感じられたことでしょう。

 今でも、9月1日は防災の日として、色々な行事が行われています。この日がなぜ防災の日なのか知っている人も少なくなったと思いますが、大正12年9月1日は関東大震災の日なのです。マグニチュード8の日本史上最大の地震災害と言われています。約10万人の死者の多くは、地震により発生した火災による焼死や、火に追われ川に入ったための水死で、特に本所の被服廠跡地では避難していた約4万人のうち3万8000人が、火災による熱風により焼死または窒息死したと言われています。まさに想像するだに恐ろしい光景です。このような、地獄物語として語られてきた光景が現実に存在するということに、日本国中の人々が怖れおののいたのです。

 9月18日、某氏は実弟を探すべく本所の被服廠跡地へやっとのことで着かれました。そしてそこで見たものは、さながら焦熱地獄が通り過ぎた跡でした。呆然と立ち尽くすまま夢遊病者のように念仏を唱えながら歩を進め瓦礫をのけては手を合わせていたところ、焼土のなかに一寸八分の木像の11面観世音菩薩様を発見されました。奇跡的に御尊顔には焼け跡もなくきれいなお姿で、焦土に咲くハスの花のごとく横たわっておられたのです。某氏は、電光に打たれたように何かの力を感じられ、この観音様を大切に神戸の自宅に持って帰って、仏壇に安置し、朝夕の供養を続けられていました。私の先々代の住職は、震災に会われた方々の慰問に駆け回る中で、この某氏にめぐり会い、その因縁を聞いた時、観音様の妙智力を感じ、「このお観音様は焦土に苦しんで死んでいく人々を、その同じ場所に立って共に熱さに苦しみながら一人一人救われていったそういうお観音様です」と、関東大震災死亡者十万の精霊を弔ふべく、この観音様を譲り受け、当寺にお祀りしたのです。先々代は、観音経の最初の七難の答えの中の、「設い大火に入るとも、火も焼くこと能わず」から、この観音様を「不焼観音<やけずかんのん>」を名づけました。

 毎年、9月1日のご縁日には、法要を営み観音経をおあげして関東大震災被災者のご供養をし、この不焼観音様におすがりして火難・災害から守って下さるようにご祈念・ご祈祷をいたします。お参りの方々は不焼観音様のお札を持って帰られて、仏壇の横に張って祈るのです。

 ある時、檀家の方が、「この不焼観音様のお札を拝んでいれば本当に火事にならんのですか?それより、火災報知器を付けるとか消火器を置くとか考えた方がえーと思いますがの」と言われました。私は何とはっきり言う人だなと思いながら、「火災報知器を付けても、消火器を置いても、火を出さないのが一番じゃないですか?火を出さないように日頃から心がけることが、一番の予防と思います。火の怖さを知り、火を丁寧に扱い、丁寧に予防する、その心がけの思いを、不焼観音様のお札を拝むことによってはぐくんでいると思うのですが・・・。」と答えました。するとある人が、「自分の家のことは確かにそうかも知れません。しかし、離れている子供の家のこと、家族のことを一生懸命拝んでいる人もいます。それで、離れている子供を火難や災害から守ることができるでしょうか?」と聞かれました。私は、この方はまだそういう経験がないのだなと思いながら、「毎日毎日一生懸命子供のために祈る。それを、子供に言うでもなく祈り続ける。それで、子供さんたちを本当に災害から守れるのか疑問に思う人がいるかも知れません。しかし、考えてみてください。この毎日の愚直な祈りをいつの日か知った子供さんはどう思うでしょうか。そんな無駄なことはしてくれるなと思うかも知れません。しかし、親のそのどうしようもない祈りの思いは、決して忘れることができないはずです。自分のいのちが決して自分ひとりのいのちではないことを、自分ひとりでは生きていないことを、知るのです。影ながら祈るこの親の祈りが、お観音様の祈りでもあるのです。」と答えました。

 私たちは、そもそも火事を防げるのでしょうか。地震を防げるのでしょうか。科学文明が発達してあたかも火をコントロールできているように思っています。しかし、未だに火事で多くの人が亡くなり苦しんでいます。地震は毎年世界のどこかで起こり、大きな被害をもたらしています。私たちは、もっと謙虚にならなくてはいけないのではないでしょうか。自然のもたらすそのような災害は、何か自然から人間へのメッセージのように思える時があります。祈りには、謙虚さがあります。自然への畏敬の念と尊敬の念を我々日本人は昔から大切にしてまいりました。ただただ祈る。一心に祈る。何も言わぬそこかしこの自然の中に、じっと耳を傾けて私たちの声を聞こうとしておられるお観音様のお姿を感じるのです。

ポイント
 火難は七難の最初にあげられている苦しみです。関東大震災の焼土の中から偶然発見されたお観音様は、火の海に苦しんで死んでいく人々を、その場に立って共に熱さに苦しみながら一人一人救われていったのです。今に不焼<やけず>観音様として、私たちに謙虚な祈りを教えてくれます。